2010/03/17

Star Trek: Spock Reflections

先に紹介した『Countdown』や『NERO』と同じ IDW から出版されている近刊 『Spock Reflections』を買ってみた。表紙絵の幼いスポックの顔はJ.J.エイブラムズ版 『Star Trek』の役者に似ているので、これも映画を補完する作品、もしくはそのスピンオフ的な作品かと思っていたのだが、そうではなかった。まあ、「Unification Part-I, II 」以降、「Countdown」 の前、という意味では、正史で描かれていない空白(の一部)を埋めるものではある。

舞台は、24世紀、従来のタイムライン上の世界である。スポックは中立地帯を航行する民間宇宙船に搭乗していた。ロミュランを発ち、リスクを犯してどこかに向かおうとしている。タイトル通り、そんなスポックの回想として少年期、クリストファー・パイク指揮下のエンタープライズ、カーク指揮下のエンター・プライズ、V’Ger事件前後のことなどの小さなエピソードが次々と語られていく。スポックの目的は何か?なぜそのような行動をとるのか?

・・・といった構成で、実はこれが時間軸でいうと映画 『Star Trek: Generations』の直後だということが明かされる。

ロミュランで地下活動をしていたスポックの手元に、ピカードが送ったメッセージが届く。そこでは、『Star Trek: Generations』での出来事が、ジェームズ.T.カークが、「ネクサス」のなかで生きていたこと、ソランの野望を阻止する過程で生命を落としたこと、説明が困難なためこの件は公には明かされていないことが語られていた。スポックはカークが埋葬されたヴェリディアIII に向かい、旧友の亡骸を彼の故郷、アイオワに戻そうとしていたのである。

まあ、ピカードがカークの亡骸をヴェリディアIII に残してきたことをよしとしない立場でこのエピソードが描かれているのであろう。いうまでもなく、ウィリアム・シャトナー作で翻訳もされたいわゆる"Shatnerverse"ものとは整合がない。あの世界では、ヴェリディアIII からロミュランが盗んだカークの亡骸がBorg テクノロジーによって「復活」するんだからね、、、

さて、本作に話しを戻すと、正直にいって、あんまり面白いストーリーではない。しかし、危険を犯してまでカークを故郷に返そうとする現在進行形でのスポックの旅が、回想のつなぎにしかなっていないからである。途中で何も事件が起こることもなく、ここにストーリーらしきストーリーもドラマも何もない。「リスクを犯してまで」といっていても、設定だけ、言葉だけのことだ。

では、回想部分で語られるエピソードが面白いか、というと、これがファンサービス的なところはあっても、些細なものばかり。スポックがヴァルカン人らしくあろうとしても、そこでは得られない何かを求めて艦隊に入り、時にロジックより優先すべきもののためにリスクをとって行動する地球人の判断を間近にみてきた、ということを示唆しようとしているのだが、それ以上のものではない。

本作の最後で、スポックは再び「リスク」を犯してロミュランに戻り、地下活動として若い世代の教育を続けていくことが描かれている。

「Unification Part-I, II 」でロミュランに残って以降のスポックの活動は映像化作品で語られる機会がなく、『Star Trek: Nemesis』のイベントのさなか彼がどうしていたのかも謎のままであった。そして、『Countdown』の冒頭、Nemesis 後のロミュランで、彼がもはや公に姿を現して活動ができる立場に成っていることが描かれているが、どのようなプロセスを経て、そうなったのかは語られていない。本作においても、結局のところそのあたりは語られずじまいである。もしこの先があるのなら、ロミュランに戻ったスポックの活動が描かれるのであれば、面白いとは思うが、本作単独であればあまり価値のない話しだなぁ、というのが正直な感想である。

2010/03/16

Star Trek: NERO

2007年からスター・トレックのコミックを出しているのが IDW Publishing という会社で、J.J.エイブラムズの映画『スター・トレック』につながる前章として発表された『Star Trek: Countdown』もここから出版されたものである。

その IDW から出版されているコミック、『Star Trek: NERO』は、『Countdown』 と同様、J.J.版の脚本家であるロベルトオーチ&アレックス・カーツマンの原案に基づいて描かれたもので、タイトルの"NERO" はもちろん、映画版でエリック・バナが演じた悪役、ネロのことである。

この作品は、映画版では描かれなかった、U.S.S.ケルヴィンとの遭遇からヴァルカンへの攻撃までの空白の25年間に何が起こったか、をテーマにしており、本編を補完するバックストーリーという位置づけになる。映画の予告編で一瞬登場したが本編からはカットされた「クリンゴン」が登場するシーンの説明にもなっているし、ネロの片方の耳が傷ついていた説明にもなっている。

物語は映画の中で描かれた、U.S.S.ケルヴィンの捨て身の攻撃の直後に幕を開ける。自分たちが過去に飛ばされた事実を理解した一行。この時間軸ではまだロミュランも健在だ。しかしネロはヴァルカンと連邦を葬り去ることでしか未来のロミュランを救うことは出きないと主張、クルーに行動を共にするよう迫る。そこに現れたのはクリンゴンの大艦隊。さすがのナラダも先の戦闘で大きく傷ついており、まだ復旧が完了していない。転送で乗り込んできたクリンゴンとの白兵戦に敗れた一行は、捕虜として流刑地ルラペンテ送りになる。

・・・そんなわけで、空白の25年は、一言でいえば、クリンゴンの流刑地として『スター・トレック VI 未知の世界』に登場したルラペンテで強制労働させられていたんですよ、っていうことだ。25年の時が過ぎ、ナラダを奪還して脱走し、未来から現れたスポック(prime)を捕らえてデルタヴェガに置き去りにし、手に入れたRed Matterと共にヴァルカンに向かうというところで本作は幕を閉じる。あとは映画のほうで描かれたとおり。

まあ、「クリンゴンに捕らえられていた」というのはよいのだけれど、クリンゴンが拿捕したナラダをルラペンテまで牽引して運び、衛星軌道上で研究していたというくだりが超絶的な無理のあるご都合主義。

・・・だったら25年間、流浪しながらスポックの到着を待ちわびていたという方が説得力があるよね。

真ん中にクリンゴン絡みのエピソードをはさもうとし、ネロというキャラクターに壮絶なドラマを背負わせようとした結果、こういうことになる。まあ、映画でこのパートを丸ごと割愛したのは正しい判断といえるだろう。

Borg の由来の技術により自己修復していたナラダが25年たって「目覚める」きっかけと、スポック(prime)がいつ、どこに現れるかをネロが知るためのギミックとして、シリーズのファンならおなじみの「あるもの」が登場する。 Borg 文明との関連を噂される、セクター001(地球)を目指して航行中の例のやつ、だ。このくだりは、ファンサービス的な意味で少し面白い。

あと、デルタヴェガという星が、ある種、特殊な軌道を巡っている惑星であり、それでヴァルカンの崩壊を見物するのに丁度よい、という説明がなされている。(ここから推測されるに、デルタヴェガはヴァルカンと同じ星系に属しながらも、長大な楕円軌道を持った惑星と考えられるが)、それがなぜ、食料補給もままならないような辺境の地であるのか、依然として説明がつかない。惑星連邦の創設メンバーでもあるヴァルカンの、そのすぐそばに位置する「近場の星」であることには違いがあるまい?

作品全体としてみると、ここには特筆するようなドラマもストーリーも何もないという点で面白くもなんともない。脚本段階で存在したけれど本編からはカットされた一連のエピソードと背景設定を説明しているだけで、そもそも独立したストーリーですらないのだから、それはまあ当たり前ではある。アートワークはCountdown と同様に力が入っていて、なかなかよい。

2010/03/13

『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』

ゲームのような構成の映画。まあ、それ以上でもそれ以下でもなく、語ることも何にもない。金のかかった大作なのに安っぽくて、「退屈な子供向けハリウッド映画」の見本のような作品である。原作は5部作だというが、続編企画がなくなっても驚かないし嘆きもしない。

まず、イントロで物語の説明が行われる。いわく、主人公はポセイドンの血を引くデミゴッドであり、ゼウスの雷撃を盗んだ嫌疑をかけられている、と。雷撃を欲するハデスにさらわれた母親を救い出し、ゼウスの疑いを晴らさなくてはならない、と。次は、チュートリアルが待っている。神の落とし子たちを集めたキャンプをステージに、ミノタウロスとの戦いやフィールドでの訓練で基本的な戦い方を教わるのだ。今後必要となる武器・アイテム・仲間を受領したら次に進もう。

キャンプをでたら、マップを手がかりにお宝を集めるクエストが始まる。アメリカを横断しながらステージを移動し、メデューサ、ヒドラと強力な中ボスを倒すごとに特殊な「真珠」をゲットしていく。ドラッグの迷宮を越え、3つ目の真珠を手に入れたら、冥界ステージへ移動だ。冥界でハデスと戦って母親を救出すれば、いよいよ最終ステージ。ここまできたらあとは簡単。幾分弱めの「雷撃泥棒」を倒してやると、オリンポスへの扉が開き、あとは勝手にムービーが流れてゲーム終了・・・って、そんな感じ。

クリス・コロンバスは「ハリー・ポッター」1作・2作の監督で、本作を手がける20世紀FOXとも懇意。そんな流れで本作の指揮を任じられたのは想像に難くないが、この人、もともと規模の小さいコメディ作品で良さが出るタイプである。監督デビュー作、『ベビーシッター・アドベンチャー』は楽しかったな。

2010/03/09

第82回アカデミー賞の雑感

第82回アカデミー賞にはあまりサプライズがなかった。波乱があったのは脚色賞と外国語映画賞。割をくったのは脚色賞を取り損ねて結局無冠に終わった『マイレージ、マイライフ(Up in the Air)』か。あと、技術部門はもう少し『アバター』が持って行っても良かったが、音響編集(sound editing) と録音(sound mixing)を『ハートロッカー』に奪われて、存在感が薄くなった。

女性監督としては初の受賞になったキャスリン・ビグロウ。昔から女性なのに男勝りな映画をつくると評判だった。彼女の作品はどれも荒削りでバランスが悪く、作品の完成度という観点でいえば、いまひとつというのが常だった。今回は題材がはまったというのもあるだろう。

今年のショウはアダム・シャンクマン演出(プロデュース)で、司会はたらい回しの挙句にスティーヴ・マーティン&アレック・ボールドウィンに落ち着いた。僕は昔からスティーヴ・マーティンが好きなのでこれはこれで楽しめたけれど、アダム・シャンクマンの演出が平板で不発。作品賞10本ノミネートで紹介に時間をとられるせいか、いつにも増して余裕のない進行だった。

昨夏に死去したジョン・ヒューズへのトリビュートがあったことは嬉しかった。監督作も多くはないし、ファミリー向け作品のプロデュースに専念するようになってからは退屈ですらあった。でも80年代に彼が残した数々の青春映画は、「ハイスクールもの」というジャンルを永久に変えてしまうだけのインパクトと影響力があった。そして、彼の作品を見て育った世代が現役として活躍している。今回の企画は、彼の作品がみなに愛されていることを再確認できて有意義だったと思う。

2010/03/06

『プリンセスと魔法のキス』

2004年のウェスタン・ミュージカル・コメディ『Home on the Range(ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか牧場を救え!)』を最後に伝統的な手描きアニメから撤退してスタジオを閉鎖したディズニーが、久々に復活させた手書き(2D)アニメーション。

アフリカ系の「プリンセス」の登場や、受身ではなく、自ら努力して幸せをつかもうとする主人公像も現代的なのだが、あまり日本のメディアが触れないポイントがある。それは、この映画が1920年代のニューオリンズを舞台に展開されるご機嫌なジャズ・ミュージカルであるということだ!

ご存知のとおり、ニューオリンズという街がハリケーン・カトリーナによって壊滅的打撃をうけたのが2005年のことだ。本作の企画にそれが影響を与えていないわけがない。ニューオリンズと、その土地が生み出した文化に対するトリビュートなのである。なにせ音楽を担当するランディ・ニューマンもニューオリンズ出身で、ジャズにも造詣が深い作曲家なのだ。当初予定されていたアラン・メンケンからの交代は、その意味で絶対的に正しい判断だといえる。

また、ディズニーのプリンセスものといえば欧州などの借り物が常だったところ、米国を舞台に、米国の文化を背景にしている点でも画期的であろう。字幕版は上映回数や場所が限られるが、ミュージカルであるという作品の性格上、大人の観客にはぜひともこちらをお勧めする。