2009/06/23

Star Trek (2009) への不満 (4)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、2度目を鑑賞して、やっぱり気に入らないことだらけだと文句をいってきた。

まあ、このシリーズは昔から設定よりもストーリー優先で、いきあたりばったりのところも多いのだが、専門家や科学者の意見をききながらそれなりの世界観やルールを構築してきたのもまた、事実。特に、24世紀もののTVシリーズ連作を作り続ける中で、詳細にわたる設定を脚本家向けのガイドラインやルールブックとしてまとめあげ、一貫性を保つよう努力を傾けてきたのだと理解している。

以前にも紹介したコミックブック『Star Trek: Countdown』にもあるように、本作は1から作り直してはいるものの、従来の世界からのタイムトラベル、介入による時間改変で生まれたパラレルワールド・・・という立て付けになっている。大雑把に言えば、敵役であるネロが突然現れて、カークの父親の乗った航宙艦を破壊したところで歴史が分岐するわけだ。

このように従来の世界観を借用して新シリーズを展開する以上、(もちろん、時代の要請による再解釈、リファイン、設定やデザインの変更は許容されるものだとしても)、タイムトラベル・時間改変に関係のないところについては、ある程度の設定を踏襲すべきであろう。本作の作り手たちは、そのようにしているのだ、と主張している。しかしながら、そうではないのは見れば分かること。

もちろん、従来シリーズも『エンタープライズ』に至って自ら整合性を破壊したり、時間改変を行ったり、かと思えばネタレベルの不整合性を無理やりエピソード化してみせたりと、あまりに自由に振る舞った挙句に自爆したのはご存知のとおりだが、、、(困)

それよりもなによりも、一番最初に指摘した通り、シリーズが本来持っていた精神性、思想や哲学を全部捨ててしまい、幼稚な娯楽映画に成り果てていることが最大の問題であろう。結果、作品は興行的に成功した。シリーズが刷新され、継続されることになった。それは喜ばしいことである。それゆえに、今後の作品において、今回失われた「何か」をどれだけ取り戻していくことが出来るのか、期待と不安を持って待つことにしたい。

2009/06/22

Star Trek (2009) への不満 (3)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、2度目を鑑賞して、やっぱり気に入らないことだらけだと文句をいっているところである。あとは細かいことばかりかもしれない。

・航宙艦のサイズが変である件

冒頭、USSケルヴィンから「800人」が脱出するのに、脱出ポッドではなく、1台当たり数名程度しか乗れないような「シャトル」が使われる。いったい何台のシャトルが積載されているのか?

この事件以降に設計、建造された艦船が「未知の脅威に対応するため」などという理由により、いわゆるこれまでの「正史」より巨大化していても良いとは思う。まあ、リニューアルだということで、この世界の宇宙船が全部大型化していたとしてもいい。しかし、このケルヴィンのサイズについては、「宇宙戦艦ヤマトのどこにあれだけの艦載機が搭載できるのか?」と同じレベルで意味不明である。

また、エンタープライズについても、ビール工場でロケしたという汚い機関室がやたら広く、いったい艦内のどこにあれだけのスペースが確保できるのか不明である。本作の作り手は、ラフでもよいから艦内の構造図などを書いてみて、それなりの整合性をとろうという考えを持ち合わせていない人間だということだ。

・新エンタープライズの外観デザインがエレガントではない件

もしかしたら、地上で作られたという設定にも起因するのかもしれないが、エンタープライズの円盤部と本体、ワープナセルと本体をそれぞれつないでいる柱がやたらに太いのが気になって仕方がない。不恰好じゃないか?かつてのエレガントさはどこにいってしまったのか。

・あまりに乱暴なコバヤシマルの件

これは、『スタートレック2』で言及された内容に基づくわけだが、カークによるプログラム改変が、誰の目にもあからさまにプログラム改変(もしくはプログラムの異常)としか思えないものだったのはどうかと思う。あのような状況になれば、カークでなくても勝てる。プログラムを変えるにしろ、バグを仕込むにしろ、(さすがのカークといえども)もう少し巧妙にやるんじゃないか。もしかして、本当に勝っちゃったの?すげー!って賞賛を浴びるカーク、「そんなのは論理的にありえない」とスポックが精査した結果、裏工作が発覚という流れの方が、適切だろう。

・カークの昇進が特例過ぎる件

アカデミーを卒業したら「少尉」として着任するのがこの世界における基本的なルール。過去の経験や実績に基づき、場合によっては例外もあるのはわかる。が、いくら(大きな)功績があったからといって、新卒の士官候補生が突然「大佐(キャプテン)」で任官され、しかも、最新鋭のフラッグシップ「エンタープライズ」の指揮を任せられるというのはいくらなんでもやりすぎだ。佐官レベルで任官され、小型の艦船の指揮を任されるというのであればまだしも。あるいは、副長としてパイクを支える、程度で終わらせることはできなかったのか。すでに「スターフリートの黎明期」というわけでもないのだから、組織の矮小化にも通じる描写であって、どうにも納得がいかない。

・字幕の件

既に広く指摘されている、スポックとアマンダ、スポックとサレクの会話における明らかな誤訳(読解力不足のレベル)はいうまでもないことだが、「キャプテン」と「サブ・リーダー」って、、、あんた、クラブ活動ちゃうんだから!なぜ艦長と副長にしないのか。文字数だってこっちのほうが少ないのに!!

(続く)

2009/06/20

Star Trek (2009) への不満 (2)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、2度目を鑑賞してきたので、言いたいことをぶちまけているところである。まあ、この作品が、娯楽映画(とくにSFアクションもの)としては面白くできているほうである・・・ということを否定するつもりはないし、本国で大ヒットしたことも良かったと胸をなでおろしているくらいである。だが、内容面や描写の面で、長年シリーズのファンをやってきた立場では納得が行かないことがあまりにも多いのである。

細かいことは後回しにするとして、本作品の距離感覚の奇妙さを最初に指摘しておきたい。もちろん、そもそも『Countdown』で、ある星の超新星化がわけの分からないくらい広範囲に影響を及ぼすという設定を作った奴等のことだから、おかしくてあたりまえなのかもしれない。

・ ヴァルカンが地球から近すぎる件

地球の軌道上から出発した艦船が、あっというまにヴァルカン宙域に到着。編集ゆえではない。カークに対する審問会の途中で緊急事態となってから、数時間も経過していないことは劇中の台詞で明確だ。しかし、ヴァルカンって、そんなに近かったっけ?否、である。

半ば公式化している設定は、「地球から概ね16光年の彼方」である。16光年といえば、この映画の時点では実現されていないはずの最大ワープ速度でも、まる2日程度は要するはずである。この世界における「ワープ」は瞬間空間移動じゃない。映画としてのスピード感を重視するためだけに、銀河を箱庭化するな、といいたい。

・ 転送可能距離が長すぎる件

木星軌道から、地球軌道上の船に転送というのもやりすぎだが、「デルタ・ヴェガ」にカークを落とした後、16光年をあっというまに移動できるようなワープ速度で離れていっているエンタープライズに転送・・・って、これはいったい何なのか?新技術による「ワープ中の船に対する転送」とかなんとかいう以前の問題で、転送距離そのものが尋常ではない。これが可能だというなら、近場の惑星間の移動は全部「転送」でいいじゃないか。これは悪いご都合主義である。航宙艦でトレックする必要性を自ら否定してどうするつもりなのか。


・「デルタ・ヴェガ」の所在に関する件

TOS のTVシリーズで銀河の辺境にある星として登場した「デルタ・ヴェガ」の名前だけを借用しているので、同じ星でないことはわかっている。

精神融合の中でのヴァルカンの崩壊シーンを考えれば、この星はあたかもヴァルカンの衛星かなにかのように思われる。が消滅して影響をうけない衛星というのは変だ。(当該シーンはスポックの心象風景であって実際の光景ではない、と脚本家が釈明している。)

いずれにせよ、ネロがあの場所に、スポック(prime) を残したのは、ヴァルカンの崩壊を間近に見せつつ、なにもできない無力さを感じさせたいという理由だった。また、ヴァルカン崩壊後、他の場所に移動する前にカークを追放していく場所であるということから、物語上の整合性を考えてもヴァルカンのそばにある星である。

そうすると、衛星ではないが、ヴァルカンの近くにあるMクラスの惑星かなにか、ということになるだろう。しかし、そんな(便利な)場所にある星なのに、「食糧補給も絶たれるような辺鄙な場所」だという。自己矛盾も甚だしい。(続く)

2009/06/19

Star Trek (2009) への不満 (1)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、大方の映画館では7/3までの公開になっている。ファンとして、次以降の日本での扱いが急に冷たくなったいすると悲しいので、2度目の鑑賞をしてきた。

ヴァルカン宙域で「R2ユニット」のようなものが舞っているという話については確信を持って特定できなかったが、「デルタ・ヴェガ」の連邦アウトポストで、例の毛むくじゃらの小さなやつ(トリブル)が飼われていることは確認。これ、次回作への伏線だったら嬉しいんだけどな。戦闘とアクションばっかりの殺伐したシリーズにしてほしくないものね。

改めて、長いあいだSTにつきあってきた立場からこの映画について思うことは、3点。娯楽アクションものとしては活気もあって良く出来ている、という前提で(だからこそ余計に腹立たしいのだが)、

(1) 結局のところわかりやすい「敵」をつくって派手にドンパチをやるようなプロット(しかも「カーンの逆襲」の何度目かの焼き直し)でしか映画を作れないという点が幼稚。

(2) 敵の強さ・残忍さを強調するため(だけ)に、連邦創設メンバーで、文化的・科学的に大きく貢献する(はずの)ヴァルカンを惑星ごと吹き飛ばすという暴挙を平気でやってのける乱暴なアイディアに愕然。

(3) クライマックス、カークが敵に通信を入れる際の態度が「俺たちは一応救おうとしたんだし、悪くないよ」という言い訳にすぎず、結局なんのためらいもなく攻撃する「演出」に怒り。

(1) については次回以降に期待、(2)も今後、ドラマ面で活かすとか、もしかしたら思わぬ荒業で「なかったこと」にすることも不可能ではあるまい。そんな意味で、許容できないとはいわない。

が、(3)だけは、本質的な部分で作り手が何かを勘違いしているとしか思えない。

このシリーズ的には「対話と相互理解」を旨とし、最後まで諦めるべきではなく、極悪人であろうとも敢えて転送で強引に救い出すのが正しい展開ではないのか。このほうがすっきりして観客にウけるというなら、それは作り手が易きに流れたということ以外の何者でもない。

同じ脚本でも、演出ひとつでニュアンスが変わったはずである。あそこはスタートレックを理解していないJ.J.エイブラムズの思想と演出が作品世界が長いあいだかけて試行錯誤の中から確立してきた思想を否定した瞬間である。だから、絶対に許さない。(続く)