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2010/03/17

Star Trek: Spock Reflections

先に紹介した『Countdown』や『NERO』と同じ IDW から出版されている近刊 『Spock Reflections』を買ってみた。表紙絵の幼いスポックの顔はJ.J.エイブラムズ版 『Star Trek』の役者に似ているので、これも映画を補完する作品、もしくはそのスピンオフ的な作品かと思っていたのだが、そうではなかった。まあ、「Unification Part-I, II 」以降、「Countdown」 の前、という意味では、正史で描かれていない空白(の一部)を埋めるものではある。

舞台は、24世紀、従来のタイムライン上の世界である。スポックは中立地帯を航行する民間宇宙船に搭乗していた。ロミュランを発ち、リスクを犯してどこかに向かおうとしている。タイトル通り、そんなスポックの回想として少年期、クリストファー・パイク指揮下のエンタープライズ、カーク指揮下のエンター・プライズ、V’Ger事件前後のことなどの小さなエピソードが次々と語られていく。スポックの目的は何か?なぜそのような行動をとるのか?

・・・といった構成で、実はこれが時間軸でいうと映画 『Star Trek: Generations』の直後だということが明かされる。

ロミュランで地下活動をしていたスポックの手元に、ピカードが送ったメッセージが届く。そこでは、『Star Trek: Generations』での出来事が、ジェームズ.T.カークが、「ネクサス」のなかで生きていたこと、ソランの野望を阻止する過程で生命を落としたこと、説明が困難なためこの件は公には明かされていないことが語られていた。スポックはカークが埋葬されたヴェリディアIII に向かい、旧友の亡骸を彼の故郷、アイオワに戻そうとしていたのである。

まあ、ピカードがカークの亡骸をヴェリディアIII に残してきたことをよしとしない立場でこのエピソードが描かれているのであろう。いうまでもなく、ウィリアム・シャトナー作で翻訳もされたいわゆる"Shatnerverse"ものとは整合がない。あの世界では、ヴェリディアIII からロミュランが盗んだカークの亡骸がBorg テクノロジーによって「復活」するんだからね、、、

さて、本作に話しを戻すと、正直にいって、あんまり面白いストーリーではない。しかし、危険を犯してまでカークを故郷に返そうとする現在進行形でのスポックの旅が、回想のつなぎにしかなっていないからである。途中で何も事件が起こることもなく、ここにストーリーらしきストーリーもドラマも何もない。「リスクを犯してまで」といっていても、設定だけ、言葉だけのことだ。

では、回想部分で語られるエピソードが面白いか、というと、これがファンサービス的なところはあっても、些細なものばかり。スポックがヴァルカン人らしくあろうとしても、そこでは得られない何かを求めて艦隊に入り、時にロジックより優先すべきもののためにリスクをとって行動する地球人の判断を間近にみてきた、ということを示唆しようとしているのだが、それ以上のものではない。

本作の最後で、スポックは再び「リスク」を犯してロミュランに戻り、地下活動として若い世代の教育を続けていくことが描かれている。

「Unification Part-I, II 」でロミュランに残って以降のスポックの活動は映像化作品で語られる機会がなく、『Star Trek: Nemesis』のイベントのさなか彼がどうしていたのかも謎のままであった。そして、『Countdown』の冒頭、Nemesis 後のロミュランで、彼がもはや公に姿を現して活動ができる立場に成っていることが描かれているが、どのようなプロセスを経て、そうなったのかは語られていない。本作においても、結局のところそのあたりは語られずじまいである。もしこの先があるのなら、ロミュランに戻ったスポックの活動が描かれるのであれば、面白いとは思うが、本作単独であればあまり価値のない話しだなぁ、というのが正直な感想である。

2010/03/16

Star Trek: NERO

2007年からスター・トレックのコミックを出しているのが IDW Publishing という会社で、J.J.エイブラムズの映画『スター・トレック』につながる前章として発表された『Star Trek: Countdown』もここから出版されたものである。

その IDW から出版されているコミック、『Star Trek: NERO』は、『Countdown』 と同様、J.J.版の脚本家であるロベルトオーチ&アレックス・カーツマンの原案に基づいて描かれたもので、タイトルの"NERO" はもちろん、映画版でエリック・バナが演じた悪役、ネロのことである。

この作品は、映画版では描かれなかった、U.S.S.ケルヴィンとの遭遇からヴァルカンへの攻撃までの空白の25年間に何が起こったか、をテーマにしており、本編を補完するバックストーリーという位置づけになる。映画の予告編で一瞬登場したが本編からはカットされた「クリンゴン」が登場するシーンの説明にもなっているし、ネロの片方の耳が傷ついていた説明にもなっている。

物語は映画の中で描かれた、U.S.S.ケルヴィンの捨て身の攻撃の直後に幕を開ける。自分たちが過去に飛ばされた事実を理解した一行。この時間軸ではまだロミュランも健在だ。しかしネロはヴァルカンと連邦を葬り去ることでしか未来のロミュランを救うことは出きないと主張、クルーに行動を共にするよう迫る。そこに現れたのはクリンゴンの大艦隊。さすがのナラダも先の戦闘で大きく傷ついており、まだ復旧が完了していない。転送で乗り込んできたクリンゴンとの白兵戦に敗れた一行は、捕虜として流刑地ルラペンテ送りになる。

・・・そんなわけで、空白の25年は、一言でいえば、クリンゴンの流刑地として『スター・トレック VI 未知の世界』に登場したルラペンテで強制労働させられていたんですよ、っていうことだ。25年の時が過ぎ、ナラダを奪還して脱走し、未来から現れたスポック(prime)を捕らえてデルタヴェガに置き去りにし、手に入れたRed Matterと共にヴァルカンに向かうというところで本作は幕を閉じる。あとは映画のほうで描かれたとおり。

まあ、「クリンゴンに捕らえられていた」というのはよいのだけれど、クリンゴンが拿捕したナラダをルラペンテまで牽引して運び、衛星軌道上で研究していたというくだりが超絶的な無理のあるご都合主義。

・・・だったら25年間、流浪しながらスポックの到着を待ちわびていたという方が説得力があるよね。

真ん中にクリンゴン絡みのエピソードをはさもうとし、ネロというキャラクターに壮絶なドラマを背負わせようとした結果、こういうことになる。まあ、映画でこのパートを丸ごと割愛したのは正しい判断といえるだろう。

Borg の由来の技術により自己修復していたナラダが25年たって「目覚める」きっかけと、スポック(prime)がいつ、どこに現れるかをネロが知るためのギミックとして、シリーズのファンならおなじみの「あるもの」が登場する。 Borg 文明との関連を噂される、セクター001(地球)を目指して航行中の例のやつ、だ。このくだりは、ファンサービス的な意味で少し面白い。

あと、デルタヴェガという星が、ある種、特殊な軌道を巡っている惑星であり、それでヴァルカンの崩壊を見物するのに丁度よい、という説明がなされている。(ここから推測されるに、デルタヴェガはヴァルカンと同じ星系に属しながらも、長大な楕円軌道を持った惑星と考えられるが)、それがなぜ、食料補給もままならないような辺境の地であるのか、依然として説明がつかない。惑星連邦の創設メンバーでもあるヴァルカンの、そのすぐそばに位置する「近場の星」であることには違いがあるまい?

作品全体としてみると、ここには特筆するようなドラマもストーリーも何もないという点で面白くもなんともない。脚本段階で存在したけれど本編からはカットされた一連のエピソードと背景設定を説明しているだけで、そもそも独立したストーリーですらないのだから、それはまあ当たり前ではある。アートワークはCountdown と同様に力が入っていて、なかなかよい。

2009/06/23

Star Trek (2009) への不満 (4)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、2度目を鑑賞して、やっぱり気に入らないことだらけだと文句をいってきた。

まあ、このシリーズは昔から設定よりもストーリー優先で、いきあたりばったりのところも多いのだが、専門家や科学者の意見をききながらそれなりの世界観やルールを構築してきたのもまた、事実。特に、24世紀もののTVシリーズ連作を作り続ける中で、詳細にわたる設定を脚本家向けのガイドラインやルールブックとしてまとめあげ、一貫性を保つよう努力を傾けてきたのだと理解している。

以前にも紹介したコミックブック『Star Trek: Countdown』にもあるように、本作は1から作り直してはいるものの、従来の世界からのタイムトラベル、介入による時間改変で生まれたパラレルワールド・・・という立て付けになっている。大雑把に言えば、敵役であるネロが突然現れて、カークの父親の乗った航宙艦を破壊したところで歴史が分岐するわけだ。

このように従来の世界観を借用して新シリーズを展開する以上、(もちろん、時代の要請による再解釈、リファイン、設定やデザインの変更は許容されるものだとしても)、タイムトラベル・時間改変に関係のないところについては、ある程度の設定を踏襲すべきであろう。本作の作り手たちは、そのようにしているのだ、と主張している。しかしながら、そうではないのは見れば分かること。

もちろん、従来シリーズも『エンタープライズ』に至って自ら整合性を破壊したり、時間改変を行ったり、かと思えばネタレベルの不整合性を無理やりエピソード化してみせたりと、あまりに自由に振る舞った挙句に自爆したのはご存知のとおりだが、、、(困)

それよりもなによりも、一番最初に指摘した通り、シリーズが本来持っていた精神性、思想や哲学を全部捨ててしまい、幼稚な娯楽映画に成り果てていることが最大の問題であろう。結果、作品は興行的に成功した。シリーズが刷新され、継続されることになった。それは喜ばしいことである。それゆえに、今後の作品において、今回失われた「何か」をどれだけ取り戻していくことが出来るのか、期待と不安を持って待つことにしたい。

2009/06/22

Star Trek (2009) への不満 (3)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、2度目を鑑賞して、やっぱり気に入らないことだらけだと文句をいっているところである。あとは細かいことばかりかもしれない。

・航宙艦のサイズが変である件

冒頭、USSケルヴィンから「800人」が脱出するのに、脱出ポッドではなく、1台当たり数名程度しか乗れないような「シャトル」が使われる。いったい何台のシャトルが積載されているのか?

この事件以降に設計、建造された艦船が「未知の脅威に対応するため」などという理由により、いわゆるこれまでの「正史」より巨大化していても良いとは思う。まあ、リニューアルだということで、この世界の宇宙船が全部大型化していたとしてもいい。しかし、このケルヴィンのサイズについては、「宇宙戦艦ヤマトのどこにあれだけの艦載機が搭載できるのか?」と同じレベルで意味不明である。

また、エンタープライズについても、ビール工場でロケしたという汚い機関室がやたら広く、いったい艦内のどこにあれだけのスペースが確保できるのか不明である。本作の作り手は、ラフでもよいから艦内の構造図などを書いてみて、それなりの整合性をとろうという考えを持ち合わせていない人間だということだ。

・新エンタープライズの外観デザインがエレガントではない件

もしかしたら、地上で作られたという設定にも起因するのかもしれないが、エンタープライズの円盤部と本体、ワープナセルと本体をそれぞれつないでいる柱がやたらに太いのが気になって仕方がない。不恰好じゃないか?かつてのエレガントさはどこにいってしまったのか。

・あまりに乱暴なコバヤシマルの件

これは、『スタートレック2』で言及された内容に基づくわけだが、カークによるプログラム改変が、誰の目にもあからさまにプログラム改変(もしくはプログラムの異常)としか思えないものだったのはどうかと思う。あのような状況になれば、カークでなくても勝てる。プログラムを変えるにしろ、バグを仕込むにしろ、(さすがのカークといえども)もう少し巧妙にやるんじゃないか。もしかして、本当に勝っちゃったの?すげー!って賞賛を浴びるカーク、「そんなのは論理的にありえない」とスポックが精査した結果、裏工作が発覚という流れの方が、適切だろう。

・カークの昇進が特例過ぎる件

アカデミーを卒業したら「少尉」として着任するのがこの世界における基本的なルール。過去の経験や実績に基づき、場合によっては例外もあるのはわかる。が、いくら(大きな)功績があったからといって、新卒の士官候補生が突然「大佐(キャプテン)」で任官され、しかも、最新鋭のフラッグシップ「エンタープライズ」の指揮を任せられるというのはいくらなんでもやりすぎだ。佐官レベルで任官され、小型の艦船の指揮を任されるというのであればまだしも。あるいは、副長としてパイクを支える、程度で終わらせることはできなかったのか。すでに「スターフリートの黎明期」というわけでもないのだから、組織の矮小化にも通じる描写であって、どうにも納得がいかない。

・字幕の件

既に広く指摘されている、スポックとアマンダ、スポックとサレクの会話における明らかな誤訳(読解力不足のレベル)はいうまでもないことだが、「キャプテン」と「サブ・リーダー」って、、、あんた、クラブ活動ちゃうんだから!なぜ艦長と副長にしないのか。文字数だってこっちのほうが少ないのに!!

(続く)

2009/06/20

Star Trek (2009) への不満 (2)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、2度目を鑑賞してきたので、言いたいことをぶちまけているところである。まあ、この作品が、娯楽映画(とくにSFアクションもの)としては面白くできているほうである・・・ということを否定するつもりはないし、本国で大ヒットしたことも良かったと胸をなでおろしているくらいである。だが、内容面や描写の面で、長年シリーズのファンをやってきた立場では納得が行かないことがあまりにも多いのである。

細かいことは後回しにするとして、本作品の距離感覚の奇妙さを最初に指摘しておきたい。もちろん、そもそも『Countdown』で、ある星の超新星化がわけの分からないくらい広範囲に影響を及ぼすという設定を作った奴等のことだから、おかしくてあたりまえなのかもしれない。

・ ヴァルカンが地球から近すぎる件

地球の軌道上から出発した艦船が、あっというまにヴァルカン宙域に到着。編集ゆえではない。カークに対する審問会の途中で緊急事態となってから、数時間も経過していないことは劇中の台詞で明確だ。しかし、ヴァルカンって、そんなに近かったっけ?否、である。

半ば公式化している設定は、「地球から概ね16光年の彼方」である。16光年といえば、この映画の時点では実現されていないはずの最大ワープ速度でも、まる2日程度は要するはずである。この世界における「ワープ」は瞬間空間移動じゃない。映画としてのスピード感を重視するためだけに、銀河を箱庭化するな、といいたい。

・ 転送可能距離が長すぎる件

木星軌道から、地球軌道上の船に転送というのもやりすぎだが、「デルタ・ヴェガ」にカークを落とした後、16光年をあっというまに移動できるようなワープ速度で離れていっているエンタープライズに転送・・・って、これはいったい何なのか?新技術による「ワープ中の船に対する転送」とかなんとかいう以前の問題で、転送距離そのものが尋常ではない。これが可能だというなら、近場の惑星間の移動は全部「転送」でいいじゃないか。これは悪いご都合主義である。航宙艦でトレックする必要性を自ら否定してどうするつもりなのか。


・「デルタ・ヴェガ」の所在に関する件

TOS のTVシリーズで銀河の辺境にある星として登場した「デルタ・ヴェガ」の名前だけを借用しているので、同じ星でないことはわかっている。

精神融合の中でのヴァルカンの崩壊シーンを考えれば、この星はあたかもヴァルカンの衛星かなにかのように思われる。が消滅して影響をうけない衛星というのは変だ。(当該シーンはスポックの心象風景であって実際の光景ではない、と脚本家が釈明している。)

いずれにせよ、ネロがあの場所に、スポック(prime) を残したのは、ヴァルカンの崩壊を間近に見せつつ、なにもできない無力さを感じさせたいという理由だった。また、ヴァルカン崩壊後、他の場所に移動する前にカークを追放していく場所であるということから、物語上の整合性を考えてもヴァルカンのそばにある星である。

そうすると、衛星ではないが、ヴァルカンの近くにあるMクラスの惑星かなにか、ということになるだろう。しかし、そんな(便利な)場所にある星なのに、「食糧補給も絶たれるような辺鄙な場所」だという。自己矛盾も甚だしい。(続く)

2009/06/19

Star Trek (2009) への不満 (1)

J.J.エイブラムズによる新しい『スター・トレック』、大方の映画館では7/3までの公開になっている。ファンとして、次以降の日本での扱いが急に冷たくなったいすると悲しいので、2度目の鑑賞をしてきた。

ヴァルカン宙域で「R2ユニット」のようなものが舞っているという話については確信を持って特定できなかったが、「デルタ・ヴェガ」の連邦アウトポストで、例の毛むくじゃらの小さなやつ(トリブル)が飼われていることは確認。これ、次回作への伏線だったら嬉しいんだけどな。戦闘とアクションばっかりの殺伐したシリーズにしてほしくないものね。

改めて、長いあいだSTにつきあってきた立場からこの映画について思うことは、3点。娯楽アクションものとしては活気もあって良く出来ている、という前提で(だからこそ余計に腹立たしいのだが)、

(1) 結局のところわかりやすい「敵」をつくって派手にドンパチをやるようなプロット(しかも「カーンの逆襲」の何度目かの焼き直し)でしか映画を作れないという点が幼稚。

(2) 敵の強さ・残忍さを強調するため(だけ)に、連邦創設メンバーで、文化的・科学的に大きく貢献する(はずの)ヴァルカンを惑星ごと吹き飛ばすという暴挙を平気でやってのける乱暴なアイディアに愕然。

(3) クライマックス、カークが敵に通信を入れる際の態度が「俺たちは一応救おうとしたんだし、悪くないよ」という言い訳にすぎず、結局なんのためらいもなく攻撃する「演出」に怒り。

(1) については次回以降に期待、(2)も今後、ドラマ面で活かすとか、もしかしたら思わぬ荒業で「なかったこと」にすることも不可能ではあるまい。そんな意味で、許容できないとはいわない。

が、(3)だけは、本質的な部分で作り手が何かを勘違いしているとしか思えない。

このシリーズ的には「対話と相互理解」を旨とし、最後まで諦めるべきではなく、極悪人であろうとも敢えて転送で強引に救い出すのが正しい展開ではないのか。このほうがすっきりして観客にウけるというなら、それは作り手が易きに流れたということ以外の何者でもない。

同じ脚本でも、演出ひとつでニュアンスが変わったはずである。あそこはスタートレックを理解していないJ.J.エイブラムズの思想と演出が作品世界が長いあいだかけて試行錯誤の中から確立してきた思想を否定した瞬間である。だから、絶対に許さない。(続く)

2009/05/31

Star Trek: Countdown (5)

J.J. エイブラムズが指揮を執る新『スター・トレック』の前日談である『Star Trek: Countdown』は、プロの仕事というよりファン・ノベルの程度といったほうが似合うくらいにいい加減で荒っぽい設定が頻出し、おなじみのキャラクターの「その後」についても納得のいかない展開があるという、ちょっと困ったコミックなのである。

とはいえ、本書で語られたバック・ストーリーは、映画本編中では台詞でちゃちゃっと説明されるだけだと考えられるので、Star Trek 好きならば、一応、映画本編とワン・セットだと考えて目を通しておくのが良いだろう。

ネロとスポックの因縁。ロミュランが壊滅したこと。ロミュラン人が喪に服す習慣として剃髪し、模様を描くこと(ネロたちは決して消えない悲しみゆえに刺青を彫った)。ネロの船はもともと鉱物の採掘船であること。その採掘船が24世紀に遭遇したある種族の技術によって改造を施され、恐るべき戦艦へと変貌を遂げたこと。

これらのことの説明は、全てこのコミックの中にある。

また、本書の内容を不愉快に感じたとするなら、おそらく、映画本編ではもっと不愉快な気分を味わうことになるに違いあるまい、、、といういう意味でも、心の準備になる一冊でもあるだろう。

ともかく、今度の映画は全く新しい仕切りなおしであると同時に、これまでの世界との接点を「時間改変によるパラレルワールド」というかたちで残し、従来ファンに対する配慮をしたかたちになっているということは明白な事実といえるだろう。(終)

2009/05/30

Star Trek: Countdown (4)

J.J. エイブラムズが指揮を執る新『スター・トレック』の前日談である『Star Trek: Countdown』は、従来シリーズの最終作『Nemesis』に続く話で、24世紀が舞台となっている。だから、主に 『The Next Generation』シリーズのキャラクターが客演しながら話が進んでいくのだが、作中での扱いに不満の残るキャラクターもあり、納得がいかないことも多い。

作り手の立場で言えば、もう従来のタイムライン上にある24世紀ものを自ら手がけることはないわけだから、何が起こっても関係ないといったところだろう。でも、従来からのファンの立場、特に24世紀もののファンの立場でいえば、従来のタイムラインはそのまま平穏に温存されている方が嬉しいにきまっている。

まあ、それ以前の問題として、話が荒っぽいなぁ、と思うのである。

これが所詮「コミック」だからという前提があれば、超新星が宇宙を飲み込むだの、赤色物質(red matter?)で人工ブラックホール(!)を作るだの、(ブラックホールの先が過去につながっているのなら、超新星はどこにいっちゃうの?だの、)幼稚で頭の悪いアイディアも読み流すことが出来る。が、そのままストレートに映画版に引き継がれているようだから困ってしまう。

プロの仕事というより、ファン・ノベルの程度、というか。

まあ、長いシリーズの中には、これ以上にどうかと思うアイディアやネタもたくさんあったんだけれどね。(続く)

2009/05/29

Star Trek: Countdown (3)

ロミュランの鉱物採掘船の指揮官であるネロの協力を得て、宙域に破滅的な影響を及ぼす超新星を葬りさる計画を実行に写したスポックであるが、不幸なことにロミュランの壊滅を食い止めるのには間に合わなかった。

そんなスポックの前に、眼前で母星を失い、妻子も失った悲しみで逆上するネロが現れる。追撃をかわしたスポックは「レッド・マター(赤色物質)」を使って人工ブラックホールを作り、間一髪で超新星を消滅させるのに成功する。。。のだが、ブラックホールが作り出した時空の裂け目はスポックの乗る宇宙船と、ネロの乗艦を丸ごと飲み込んでしまうのだった。

そんな話である。

舞台が24世紀なので、主に 『The Next Generation』シリーズのキャラクターが客演しながら話が進む。これが、従来ファンに向けたお楽しみというわけである。

惑星連邦の駐バルカン大使として着任しているピカード。クリンゴン艦隊を率いるウォーフ将軍。引退し、自らの設計による特殊な航宙艦を建造しているジョーディ。そして、B-4のニューロ・ネットにメモリーバンクをコピーすることで復活し、エンタープライズの艦長を務めるデータ。

キャラクターが出てくるのは嬉しいが、作中での扱いに不満の残るキャラクターもあり、これが正史だといわれるのは正直、嫌だな、と思う。特に、ウォーフの扱いには納得がいかない。(続く)

2009/05/28

Star Trek: Countdown (2)

Star Trek: Countdown』は、J.J. エイブラムズが指揮を執る新『スター・トレック』の公開を前に発売されたコミックで、同作品の脚本家が映画の「プロローグ」、つまり、背景設定となるストーリーを書き下ろしたものである。

物語の舞台は24世紀。時間軸でいうと、劇場版第10作の『Star Trek: Nemesis』の後という設定で幕が開く。

ストーリーはこうだ。

映画版第10作(「TNG」第4作)である『Nemesis』(邦題『ネメシス S.T.X』)における事件の後、一応は政体の建て直しと民主化が進められていると思しきロミュラン。今ではおもてだった活動を行うことができるようになっていたスポックが、領域内で発生している超新星が巻き起こしている異常な事象に対しての警告を行う。これを放置すれば、やがてロミュランに、そして銀河全体に大きな災厄をもたらすという。

スポックはロミュラン政府に協力を申し出るが、懐疑的な評議会はこれを拒絶する。一方、評議会の決定に不服を持った鉱物採掘船の指揮官・ネロという男が、秘密裏にスポックへの協力を申し出る。

スポックの計画は、人工ブラックホールを生成することで超新星を葬りさるというもので、希少な鉱物資源と、バルカンの科学技術が必要であった。ネロから鉱物資源の供与を得たスポックだったが、技術供与に慎重な母国・バルカンの説得に手間取っているうち、超新星の影響がロミュランに及んでしまう。(続く)

2009/05/27

Star Trek: Countdown (1)

当方は『Star Trek』シリーズの長年のファンであるから、今度の新作については期待と不安が入り混じった気持ちで公開を待っている。関連するネタとして、今回は邦訳未発表のコミックについて書く。しばらく前に購入し目を通していたのだが、映画の国内公開までに時間があったので、敢えて言及を控えていた。


『Star Trek: Countdown』は、J.J. エイブラムズが指揮を執る新『スター・トレック』の公開を前に発売されたコミックで、同作品の脚本家が映画の「プロローグ」、つまり、背景設定となるストーリーを書き下ろしたものである。


映画版の予告編で、エリック・バナ演ずる敵キャラクターが "James T. Kirk was a great man... but that was another life" (字幕では「ヤツとは別人だ」という微妙な訳)と語っていたのを覚えているだろうか。さらに、スポックことレナード・ニモイの出演が正式に公表されていたから、これらからの類推で、「ははぁ、過去を描くとか、リ・イマジネーションとかいっているが、タイムトラベルによる歴史改変/パラレル・ワールドものとして全リセットを図るつもりだな」と勘付いたことだろうと思う。

要するに、これまで描かれてきたサーガ、いわゆる「正史」と、新作以降で描かれるパラレル・ワールドとのブリッジがこのコミックだ。

新しい『スター・トレック』が、事実上『スター・トレック 11』でもあるが、新シリーズはパラレルワールドなので事実上、何でもありになりますよ、という、旧来のファンへの目配せをかねた言い訳となる作品ということである。

そんなわけで、物語の舞台は24世紀。時間軸でいうと、劇場版第10作の『Star Trek: Nemesis』の後という設定で本書の幕が開く。(続く)